日本が対米開戦を決断した最も直接的かつ決定的な要因は、国家的な資源枯渇の危機でした。当時、日本の石油消費量の約80%はアメリカからの輸入に依存していました。鉄鉱石や屑鉄、ゴムなどの戦略物資も海外からの供給なしには成り立たない極めて脆弱な経済基盤の上に軍事力を築いていたのです。
1941年7月、日本軍が東南アジアの資源地帯への進出拠点とするため南部仏領インドシナ(現在のベトナム南部)へ進駐したことを受け、米国のルーズベルト政権は強力な制裁措置を発動しました。1941年8月1日に断行された「対日石油輸出の全面禁止」と在米日本資産の凍結です。これにより、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)による経済封鎖、いわゆるABCD包囲網が完成しました。
当時の海軍軍令部や企画院の試算によると、石油の備蓄量は平時で約2年、戦時消費では1年半程度で底をつく見通しとなっていました。海軍軍令部総長であった永野修身は、昭和天皇への上奏において「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国を免れざるべしとせば、戦わずして亡国に沈むは身も心も民族の破滅である」という趣旨の発言を残しています。この「座して死を待つよりは、資源地帯(蘭領東インド/現在のインドネシア)を確保して一戦を試みる」という焦燥感に満ちた現状打開の論理が、南進政策の強行と対米英開戦への引き金となりました。