鳥取城跡周辺の現地調査や、滋賀県長浜市に残る宮部城跡の伝承を検証すると、継潤に対する地元住民の評価は極めて良好です。ネット上の歴史フォーラムやSNSでは「浅井を裏切った裏切り者」「冷酷な兵糧攻めの実行部隊」といった一面的な見方が散見されますが、これは軍記物の脚色による誤解に過ぎません。
残存する「宮部文書」や当時の書状を紐解くと、継潤は自領の農民や寺社に対し、理不尽な徴発を厳しく戒めていた事実が判明しています。浅井長政から織田信長への転身も、滅亡へひた走る浅井家と運命を共にするのではなく、領民と家臣団の存続を第一に考えたリアリストとしての苦渋の決断でした。
九州平定(1587年)や小田原征伐(1590年)、文禄・慶長の役においても、継潤は兵糧米の補給路確保や後方兵站管理を完璧に遂行しました。戦国ファンの間では「前線の猛将」ばかりが称賛されがちですが、現代の組織論で言えば、サプライチェーンを滞りなく管理し、リスクヘッジを徹底した「最高執行責任者(COO)」的な存在こそが宮部継潤でした。