1945年6月23日未明、沖縄本島最南端の摩文仁(まぶに)にある軍司令部壕。米軍の包囲網が狭まる中、第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将は割腹自決を遂げました。現場にいた将校の多くが後を追って自決を選択する極限状況において、作戦の責任者である第32軍高級参謀・八原博通が死を選ばなかった経緯には、司令官との決定的な密命が存在していました。 自決の直前、牛島司令官は八原に対し、明確にこう告げました。「八原、貴官は死んではならん。いかに屈辱であろうとも生き延びよ。そして沖縄戦の実相を大本営に、そして後世の国民に正確に伝えよ」。軍の統帥権を持つ最高指揮官からの直接命令は、武士道的な死生観に縛られていた当時の軍人にとって、自決以上の重い義務を課すものでした。 牛島司令官の命を受けた八原は、軍服を脱ぎ捨てて民間人の装いに身をやつし、混迷を極める戦場からの脱出を図ります。目指したのは本島中北部のゲリラ戦部隊との合流、あるいは本土への生還ルートでした。具志頭村付近の洞窟を転々とした後、難民集団に紛れていた八原は米軍に発見・拘禁され、具志川村の捕虜収容所へと送送されることになります。 捕虜収容所では当初、民間人として素性を偽っていました。しかし、理知的で端正な立ち居振る舞いや流暢な英語力、他の収容者からの敬意が尋問官の疑念を呼び、程なくして「第32軍の作戦を一手に握っていた高級参謀その人」であることが判明します。これが八原博通の捕虜となった真相であり、自らの保身ではなく、軍司令官から託された任務の遂行という強烈なプロ意識に裏打ちされた行動でした。
沖縄戦を指揮した八原博通の真相|持久戦の天才参謀が生き残った理由
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