舞台「巡礼歌の段」において、編笠をかぶり巡礼の鈴を鳴らしながら現れた見知らぬ少女に対し、お弓が「どこの生まれでお名前は何というのか」と尋ねる場面があります。ここで語られるのが、日本の伝統芸能屈指の名セリフです。
「国は阿波の徳島でござります。父様の名は阿波の十郎兵衛、母様はお弓と申します」
巡礼歌(「同行二人」の御詠歌)を健気に唄いながら、幼い声で両親の名前を口にするお鶴。目の前の少女が紛れもなく自らの手で残してきた実の娘であると悟ったお弓の胸中は、狂おしいほどの歓喜と激痛に引き裂かれます。
今すぐにでも抱きしめ、名乗り合いたい母。しかし、十郎兵衛とお弓は追われる身の盗賊であり、明日をも知れぬ重罪人の境遇です。今ここで親だと名乗れば、お鶴までもが同類として捕縛され、死罪に巻き込まれることは火を見るより明らかでした。娘の命を救うため、お弓は溢れる涙を必死に押し殺し、「他人の空似」と偽って冷淡に追い返す決断を下します。この名台詞の背景には、我が子を愛するがゆえに名乗れないという、極限の親心が隠されています。