豊臣秀吉の直系血統に関する歴史的事実を整理すると、大坂夏の陣の直後に男子の血筋は完全に途絶えたと記録されています。秀吉の後継者であった豊臣秀頼は、大坂城落城の際に母・淀殿とともに自害しました。
秀頼には側室との間に生まれた8歳の嫡男・豊臣国松がいました。国松は城から脱出し、京都へ逃れようと試みましたが、徳川方の徹底した残党狩りによって捕縛されます。そして慶長20年5月23日、京都の六条河原で市中引き回しの末に斬首され、秀吉の直系男子の血脈はここで公式に途絶えることになりました。
一方、秀頼の娘であった幼い女児(後の天秀尼)は、秀頼の正室・千姫(徳川秀忠の娘)の必死の助命嘆願によって一命を取り留めます。彼女は鎌倉の名刹・東慶寺に入寺して出家し、後に第20世住持となりました。天秀尼は、会津四十島事件で罪に問われた女性を東慶寺の駆込寺(縁切寺)の特権を使って保護するなど毅然とした生涯を送り、正保2年(1645年)に43歳で示寂。彼女の死をもって、秀吉の直系血統は名実ともに断絶を迎えました。