「なぜ四川省の人々はこれほど辛い料理を日常的に食べるのか」という疑問の答えは、現地の過酷な自然環境と中医学の思想にあります。四川盆地は周囲を険しい山々に囲まれ、年間を通じて雲や霧に覆われやすい地形です。夏は極めて蒸し暑く、冬は日照時間が極端に短くて底冷えが続くため、湿気が地表に滞留しやすい特徴を持っています。
中国の伝統医学において、過剰な湿気は体内に蓄積して倦怠感や関節痛、胃腸機能の低下を引き起こす「湿邪(しつじゃ)」と考えられてきました。この湿気に対抗するために用いられたのが、発汗作用を促す辛味生薬です。明代末期に新大陸から唐辛子が伝来する以前から、四川地域ではショウガや花椒、タデなどが日常的に消費されていました。
17世紀以降に唐辛子が四川へ定着すると、辛味と発汗作用が湿邪を払う手段として民衆の知恵と結びつきました。つまり、四川料理が辛い理由は嗜好品としての刺激を求めた結果ではなく、「気候風土を生き抜くための医食同源の実践」から生まれた必然でした。発汗によって体温を調節し、強力な殺菌作用を持つスパイスで食材の保存性を高める生活の知恵が、数百年をかけて洗練された調理技術へと昇華したのです。