元和2年(1616年)、20歳になった千姫は、美男子として名高かった本多忠刻(ほんだ ただとき)と再婚します。これは形式的な政略結婚ではなく、大坂からの帰途に出会った忠刻に千姫が一目惚れしたとも言われる、当時としては極めて珍しい相思相愛の婚姻でした。
翌年、本多家が播磨姫路藩(兵庫県姫路市)へ移封されると、千姫には幕府から破格の持参金として「化粧料10万石」が与えられます。世界遺産として名高い現在の姫路城には、千姫のために増築された「西の丸」や、彼女が休息所として使った国宝「化粧櫓(けしょうやぐら)」が今も現存しています。男児(幸千代)の夭折という悲劇はあったものの、長女・勝姫に恵まれ、忠刻と過ごした姫路での約10年間は、彼女の生涯で最も心安らぐ時間でした。
しかし寛永3年(1626年)、最愛の夫・忠刻が30歳の若さで病死。同じ年に母・江も亡くした千姫は、本家である江戸へ戻り、髪を落として「天樹院(てんじゅいん)」と号しました。以後は江戸城内の竹橋御殿に住み、3代将軍・徳川家光(実弟)や4代将軍・徳川家綱を支える徳川一門の長老として重きをなしました。寛文6年(1666年)、70歳でこの世を去るまで、一門の調停や寺社の復興に尽力する堂々たる晩年を送ったのです。