『ゴールデンカムイ』の食事シーンにおいて、杉元やアシリパが満面の笑みで口にする「ヒンナ、ヒンナ」というフレーズ。ファンの間では「アイヌ語で美味しいという意味」として広く認知され、グルメレポートやSNSの投稿でも日常的に用いられるようになりました。しかし、「ヒンナ(hinna)」の語源と本来の言語的意味は「美味しい」ではありません。
本作のアイヌ語監修を一貫して手掛けた千葉大学名誉教授の中川裕氏が、自著『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社新書)や各メディアのインタビューで繰り返し明言している通り、ヒンナは本来「神や自然、そして食事を用意してくれた人々に対する感謝の辞」です。日本語のニュアンスに引き寄せるならば、「美味しい」という味覚の評価ではなく、「ありがたい」「ごちそうさま」「いただきます」といった感謝と敬意の念を表す感嘆詞にあたります。
アイヌ民族の伝統的な世界観において、人間を取り巻くあらゆる動植物や生活道具、自然現象にはそれぞれ魂があり、人間の世界へ恩恵をもたらすためにやってきた「カムイ(神・霊的存在)」と捉えられます。狩猟によって得られた鹿や熊、魚などの獲物は、「カムイ自らが人間界に肉や毛皮の衣を脱ぎ捨てて贈り物として届けてくれた」と考えられていました。そのため、獲物を口にする際には、その命を恵んでくれたカムイに対して、極めて丁重な感謝を捧げなければなりません。その祈りの心が「ヒンナ」という一言に凝縮されています。
作中で「ヒンナヒンナ」と2回重ねて使われる表現についても、読者の親しみやすさと漫画的なリズム感を考慮した工夫が見られます。アイヌ語において感謝を強調する場合、言葉を重ねる言い回し自体は自然な強調表現として機能しますが、単に「旨い」と叫んでいるのではなく、「本当にありがたい恵みである」という神聖な礼節を作中人物たちが表している点こそが、本作の描写の真骨頂といえます。