インターネット上の掲示板やSNSでは、今なお「バースは高額な契約更改を要求してゴネた」「成績低下を理由に逃げ帰った」といった事実無根の憶測が散見されます。しかし、当時の客観的資料や報道記録を精査すると、これらの噂が全くの誤謬であることは明白です。
第一に、1988年開幕直後のバース氏は22試合で打率.321、2本塁打と依然として高水準の打棒を維持していました。戦力的に不要だったわけではなく、チームにとっても現場を預かる首脳陣にとっても絶対に欠かせない主軸打者でした。
第二に、対立の本質は「年俸の増額要求」ではなく、純粋な「契約書に明記されていた医療保険の履行」と「子どもの命」に対する価値観の乖離でした。当時の日本球界は、昭和的なパターナリズム(温情主義)が支配的であり、フロント側には「選手は球団の意向に従うのが当然」「プライベートよりチームが優先」という無言の同調圧力が根強く残っていました。一方で、アメリカ出身のバース氏にとって「家族の危機に寄り添うこと(ファミリー・ファースト)」は議論の余地すらない人道的な義務でした。
球団フロント内部でも、前任の理解ある幹部から体制が移行したばかりであり、現場監督や選手会との意思疎通が著しく機能不全に陥っていたことが後の関係者の手記で明かされています。掛布雅之氏や岡田彰布氏ら当時の主力選手たちも、バース氏の置かれた境遇に深い同情を寄せており、選手間での不協和音など存在しなかったのが現場の真実です。