劇中の中盤、キキは突如として空を飛ぶ力を失い、ほうきでバランスを取ることすらできなくなります。一見すると「風邪を引いたこと」や「トンボたちとの人間関係の摩擦」が直接の引き金に見えますが、本質的な原因は思春期における自己同一性(アイデンティティ)の崩壊にあります。
魔女の家庭に生まれ、母親コキリから受け継いだ唯一の特技が「飛ぶこと」だったキキにとって、空を飛ぶ魔法は無条件に自分を肯定してくれる特別なアイデンティティでした。しかし、大都会コリコの街で暮らすなかで、自分よりも洗練された都会の少女たちや、自分の力ではどうにもならない現実の冷たさに直面します。「私には飛ぶことしか取り柄がないのに、それすら特別な価値ではないのかもしれない」という自己否定の感情が、魔法の源泉であった自信を根本から揺るがしたのです。
宮崎駿監督は当時のインタビューで、「魔法とは特別な超能力ではなく、女の子が誰しも持っている才能やおしゃれ心の比喩である」と語っています。才能に頼り切っていた無邪気な少女が、社会に出て自らの足で立つプロセスにおいて、一度その才能を見失い、苦悩の末に「自分の意志で再構築する」というイニシエーション(通過儀礼)こそが、飛べなくなった本当の理由でした。