陸上競技の短距離走において、レースの幕開けを告げる合図「On your mark」。日本語では定訳として「位置について」と教えられますが、英語の直訳は「あなたのマーク(印)の上に」です。ここで生じる最大の疑問は、「なぜposition(位置)やplace(場所)ではなく、markなのか」という点にあります。
時計の針を19世紀後半、近代陸上競技の黎明期へと巻き戻してみましょう。当時、現在のような全天候型のウレタン舗装トラックや、足を固定する金属製の「スターティングブロック」は存在していませんでした。走者たちは土や灰(アンツーカー)、芝生のトラックを素足や革靴に近いスパイクで走っていたのです。
1888年、エール大学の陸上選手チャールズ・シェリル(Charles Sherrill)が、カンガルーの姿勢からヒントを得て「クラウチングスタート」を世界で初めて考案したとされています。当時、前傾姿勢で爆発的な推進力を得るためには、後方へ蹴り出す足が滑らないよう、選手自身の手や小型のこてを使ってトラックの地面に深さ数センチの溝(穴)を掘る必要がありました。この地面に刻んだ自らのための足場こそが、原義における「mark(目印・刻み目)」です。
当時のスターター(出発係)は、競技者たちに向けて「Get on your marks(お前たちが掘ったそれぞれの足場に足を入れろ)」と叫びました。それが時代を経て無駄を削ぎ落とした号令へと洗練され、今日の「On your mark(s)」というスタート合図として定着したのです。つまり、この短いフレーズには、近代スポーツが試行錯誤を重ねていた時代の「泥臭い物理的痕跡」がそのまま息づいています。