新府城址を68日で焼いた武田勝頼の衝撃の決断と悲運の真相

新府城址を68日で焼いた武田勝頼の衝撃の決断と悲運の真相

今注目を集めている 新府城址を68日で焼いた武田勝頼の衝撃の決断と悲運の真相について、多角的な視点を整理して公開しています。

新府城の築城は、武田家にとって長年慣れ親しんだ甲府・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を捨てるという、まさに社運を賭けた一大プロジェクトでした。天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍の鉄砲隊に大敗を喫した武田軍は、旧来の騎馬突撃戦法から、鉄砲戦を見据えた強固な要塞戦へと抜本的な方針転換を迫られていました。

そこで勝頼が築城の総責任者(普請奉行)に抜擢したのが、のちに上田城で徳川の大軍を二度にわたり撃退する知将・真田昌幸です。天正9年(1581年)2月、昌幸の指揮のもとで着工された新府城は、甲府盆地の北西端に位置する七里岩(しちりいわ)の断崖絶壁に選定されました。釜無川と塩川に挟まれた標高約530メートルの高台は、西側と南側が天然の切り立った崖となっており、極めて強固な防御力を誇る地形でした。

この要塞の最大の特徴は、武田流築城術の極致とされる「丸馬出(まるうまだし)」と「三日月堀」を巧みに配置した点にあります。大手口(城の正面玄関)と搦手口(裏門)の双方に張り巡らされた丸馬出は、城内から打って出る部隊を敵の射撃から隠しつつ、側面から十字砲火を浴びせるための先進的な迎撃空間でした。真田昌幸が培ったこの築城技術は、のちに大坂の陣で真田信繁(幸村)が築く「真田丸」の原点になったとも指摘されています。

橋本 菜々子
著者

橋本 菜々子

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。