山内溥の歩みは、順風満帆とは程遠い波乱の幕開けでした。1927年に京都で生まれた山内は、祖父である第2代社長・山内積良が脳脳梗塞で倒れたことを受け、1949年、早稲田大学法文学部を中退してわずか22歳で第3代社長に就任します。当時、社内には古参幹部や職人気質の職人が多く、若き青年社長の就任に反発する声が渦巻いていました。山内は就任にあたり「一族の役員をすべて退陣させること」を条件とし、就任直後には大改革を断行。反対勢力を排除して絶対的なリーダーシップを確立しました。
就任直後の1953年には日本初となるプラスチック製トランプの製造販売に成功し、1959年には米ディズニーとのライセンス契約による「ディズニートランプ」で爆発的なヒットを記録します。しかし、トランプ市場の飽和を予見した山内は、タクシー事業(ダイヤタクシー)、インスタントライス、レトルト食品、ラブホテル経営など、異分野への多角化を矢継ぎ早に展開。その多くは手痛い失敗に終わり、同社は巨額の負債を抱える危機に直面しました。
この手痛い挫折から山内が得た教訓こそが、「他社と同じことをやっても意味がない。任天堂は娯楽(エンターテインメント)に生きるべきである」という揺るぎない事業ドメインの確立でした。この徹底した失敗の経験が、後のエレクトロニクス玩具や家庭用ゲーム機市場への進出という歴史的転換点の原動力となったのです。