この句に宿る哀惜を真に理解するためには、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて平泉で起きた、壮絶な政治的ドラマを知る必要があります。
平泉は、初代・藤原清衡から、基衡、秀衡に至る奥州藤原氏三代が約100年間にわたり独自の平和と繁栄を築き上げた地でした。京都に匹敵する仏教都市を造営し、中尊寺金色堂に象徴される黄金文化を開花させていたのです。
しかし、兄・源頼朝から追討を受けた源義経が、かつて自分を育ててくれた三代当主・藤原秀衡を頼って平泉に逃げ延びたことで、運命の歯車が狂い始めます。秀衡は義経を主君として仰ぎ、頼朝に対抗するよう遺言を残して病没しましたが、跡を継いだ四代・藤原泰衡は、頼朝の軍事的威圧に屈しました。
文治5年(1189年)閏4月、泰衡は500騎の兵で義経の籠る高館を急襲。義経は僅か十数騎の家臣とともに防戦したものの力尽き、持仏堂に籠もって自害しました(享年31)。さらに頼朝は、義経を討った泰衡をも容赦なく攻め滅ぼし、奥州藤原氏の百年の栄華は瞬く間に灰燼に帰したのです。