織田信長の死因は自害か焼死か?遺体なき最期の真相と謎を追う

織田信長の死因は自害か焼死か?遺体なき最期の真相と謎を追う

織田信長の死因は自害か焼死か?遺体なき最期の真相と謎を追うとはどのようなものなのか? 主要なファクトを整理してお届けします。

織田信長最期の様子を記録した史料の中で、最も一級の信頼性を誇るのが、信長の旧臣である太田牛一が著した『信長公記(しんちょうこうき)』です。同書によれば、わずか百人足らずの手勢とともに宿泊していた信長は、敵が光秀の軍勢と知ると「是非に及ばず(やむを得ない、運命を受け入れる意)」と呟き、自ら弓や槍を取って防戦したと記されています。

しかし、多勢に無勢の中で肘に銃創を負い、これ以上の抗戦は不可能と判断した信長は、女性たちに避難を命じた後、御殿の奥深くに入って障子を締め切り、切腹自害を遂げたとされます。その直後、近習の森蘭丸らに命じて御殿に火を放たせ、敵に首を渡さないよう徹底した処置をとらせました。

一方で、同時代に日本に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスがまとめた『日本史』には異なる描写が残されています。フロイスの報告では、信長は肩に銃弾(あるいは矢)を受け、傷を負ったまま奥の部屋へ退き、やがて燃え盛る炎の中で焼死したと伝えられています。当時の木造建築における火災の速度と火力を考慮すると、切腹の作法を完遂した直後に炎に包まれたか、あるいは煙による一酸化炭素中毒で息絶えた後に遺体が焼失したと見るのが自然な医学的推察です。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。