史実における楽毅の軌跡は、華々しい栄光と政治的悲劇が交錯するドラマに満ちています。『史記』楽毅列伝に記された詳細なタイムラインを整理します。
斉を滅亡寸前に追い込んだ楽毅でしたが、唯一残った即墨(そくぼく)と莒(きょ)の2城を攻めあぐねる形となりました。楽毅は力攻めを避け、斉の民衆の離反を防ぎながら投降を促す長期戦術を選択します。しかし、紀元前279年に最大の理解者であった昭王が急逝したことで運命が一変します。
後を継いだ恵文王(けいぶんおう)は、皇太子時代から楽毅と折り合いが悪く、斉の名将・田単(でんたん)が仕掛けた「楽毅は自ら斉王になるつもりだ」という離間計にまんまと嵌ってしまいます。恵文王は楽毅を総司令官から解任し、凡将である騎劫(ききょう)を後任に据えました。
身の危険を察知した楽毅は、祖国である燕を離れ、かつて父祖の縁があった趙へと亡命します。趙の恵文王(燕の同名異人)は楽毅を大歓迎し、望諸君(ぼうしょくん)の称号を与えて高官に迎えました。その後、騎劫率いる燕軍は田単の「火牛の計」によって壊滅的な大敗を喫し、奪った70城をすべて斉に奪回されるという歴史的逆転劇が起こります。
恵文王は後悔して楽毅を責めましたが、楽毅が返答として送った書簡『報燕恵王書』は、臣下としての至誠と主君への礼節を説いた漢文の歴史的名文として現代まで伝わっています。感動した恵文王は楽毅の忠心を認め、楽毅の息子である楽間を燕で重用。楽毅自身は趙と燕の双方で客卿として重用され、紀元前257年頃に趙の地で穏やかに死去しました。