通州事件の真相とは?誤爆が招いた惨劇と教科書に書かれぬ全貌

通州事件の真相とは?誤爆が招いた惨劇と教科書に書かれぬ全貌

通州事件の真相とは?誤爆が招いた惨劇と教科書に書かれぬ全貌の疑問点について、専門知識を取りまとめてご紹介します。

通州事件(つうしゅうじけん)の輪郭を捉えるには、まず当時の華北情勢という複雑なパズルを紐解く必要があります。事件が起きた1937年(昭和12年)7月29日、舞台となった通州(現・北京市通州区)は、日本軍の後押しによって成立した「冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」の首都でした。

冀東防共自治政府は、1935年に殷汝耕(いんじょこう)を首班として設立された親日政権です。国民政府(蒋介石政権)の支配から切り離された緩衝地帯に位置し、日本軍の支那駐屯軍と緊密な連携をとっていました。当時の通州には、行政指導にあたる特務機関員や守備隊、そして平和な日常を送る商店主や会社員、その家族など、多くの日本人および朝鮮半島出身の居留民が暮らしていたのです。

しかし、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に、華北の緊張は臨界点へと達します。7月25日の廊坊事件、7月26日の広安門事件と小競り合いが全面衝突へと発展する中、日本軍は7月27日、宋哲元率いる中国軍第29軍に対する本格的な掃討作戦を開始しました。

最前線の北京・天津方面へ日本軍主力が進軍した結果、後方の通州に残された防備は極めて手薄になりました。歩兵第1連隊第2中隊を中心とする後方部隊と特務機関員など、日本側の軍事要員はわずか百数十名。その一方で、街の内外には自治政府が組織した約4,000名に及ぶ中国人部隊「通州保安隊」が駐留していました。この防衛の空白と兵力バランスの圧倒的歪みこそが、悲劇の舞台装置となったのです。

池田 達也
著者

池田 達也

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。