マザーグースという古典的なルーツを持っていた「over the moon」ですが、実は20世紀中盤までは、現在のように誰もが日常的に口にする表現ではありませんでした。この言葉が爆発的な大衆性を獲得し、英語圏全体の共通語へと押し上げられた背景には、1970年代の英国フットボール中継におけるテレビカルチャーの台頭があります。
当時、試合直後の熱狂に包まれたスタジアムのピッチ脇で、勝利を収めた監督や選手たちがマイクを向けられた際、判で押したように口にしたのが次のフレーズでした。
「The lads played brilliantly, Brian. I'm absolutely over the moon!」
(選手たちは見事に戦ってくれた。信じられないほど最高な気分だよ!)
特に名将ブライアン・クラフ(Brian Clough)をはじめとする当時のカリスマ指導者やストライカーたちが、勝利の陶酔を語る際にこの表現を連呼したことで、BBCやITVを通じて全英の茶の間へ瞬く間に浸透しました。当時の英国フットボール界では、勝利したときの「over the moon」と、惨敗したときの「sick as a parrot(酷く落胆して)」がワンセットのクリシェ(お決まり文句)として定着したほどです。
メディア文化の爆発的な拡大とともに、労働者階級の熱狂からオフィスワーカーの日常会話、さらには王室関係者のくだけたスピーチにまで使用範囲が広がりました。かつてのマザーグースの空想詩は、マスメディアの生中継という現代のメガホンを得て、決定的な現代英語イディオムとして不動の地位を築いたのです。