ジブリ映画を観て「平安貴族の頂点に立つ帝は、昔話でもあのような傲慢な人物だったのか」と誤解する人は少なくありません。しかし、平安時代初期に成立した日本最古の仮名物語『竹取物語』における帝は、ジブリ版とは全く異なる誠実で思慮深い理想の貴族として描かれています。
原典と映画版の描写の違いを詳細に比較すると、高畑監督がどのような意図を持って物語を再構成したのかが浮き彫りになります。
原作『竹取物語』における帝は、石作皇子や車持皇子といった5人の求婚者たちが偽物の宝物を持参して浅ましさを露呈したのとは一線を画しています。帝はかぐや姫が人間ではないと知り、求婚を断られてからも決して力尽くで奪おうとはせず、3年間にわたって風雅な和歌を文通し続けました。かぐや姫側も、帝に対してだけは人間的な敬意と淡い親愛の情を抱いていました。
さらに、原作のクライマックスにおいて、かぐや姫は月に帰る直前、帝にだけ形見の羽衣と手紙、そして「不死の薬」を遺します。しかし帝は、「かぐや姫のいないこの世で、永遠に生き長らえて何になろう」と深く嘆き悲しみ、手紙と不死の薬を天に最も近い山へ持って行かせ、頂上で焼き捨てさせました。その煙が永遠に立ち上り続けたことから、その山は「不死の山」、転じて「富士山」と呼ばれるようになったという切ない語源譚(地名起源説話)が記されています。
ジブリ版では、このロマンチックな悲恋劇をあえて解体しました。平安貴族社会の「所有すること」「従属させること」への執着こそがかぐや姫を窒息させた本質であると捉え直し、原典が持つ男性中心的な美談の裏に潜む暴力性を容赦なく暴き立てたのです。