太宰治の生涯は、まさに愛と死、そして欺瞞との終わりのない格闘でした。青森の大地主「津島家」の六男として生まれ、何不自由ない環境で育ちながらも、自らがブルジョワ階級であることへの原罪意識に生涯苛まれ続けました。
東京帝国大学仏文科への入学、左翼運動への傾倒と挫折、初代・小山初代との同棲と裏切り、そしてカフェの女給・田部シメ子をはじめとする複数の女性との心中未遂。彼の経歴を客観的に辿れば、周囲の人間を巻き添えにして傷つけ続けた「加害者」の側面を否定することはできません。
愛を語る太宰の言葉は、常に極限状態の切迫感を帯びています。 『斜陽』の中で繰り出される「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」という断言や、愛人・太田静子に送った手紙に見られる情熱的な言葉の数々は、ロマンチックな恋愛感情というよりも、既存の道徳を粉砕してでも自らを救済しようとする「生きるための闘争宣言」でした。
そして1948年6月13日、雨の玉川上水。山崎富栄と共に入水自殺を遂げた太宰が、妻・美知子に遺した遺書にはこう記されていました。
「美知様、お前を誰よりも愛していました」
別の女性と抱き合って死を選びながら、本妻へ最期の愛を告げるという、常人には到底理解しがたい残酷な矛盾。自らの欺瞞と弱さを最後まで統御しきれず、しかしその引き裂かれた自己を隠すことすらできなかった男の断末魔が、太宰の遺書の真相です。