なぜ初期メンバーの離脱劇や分裂劇は起きたのでしょうか。その核心には、昭和の芸能界において比類なき成功を収めたリーダー・いかりや長介の完全主義的なマネジメント思想と、それに抗ったメンバーたちの表現者としての自負がありました。
いかりや長介は自著『だめだこりゃ』(新潮社)の中で、ドンキーカルテットとして去っていった小野ヤスシらとの分裂劇について率直に振り返っています。当時を回顧したいかりやの言葉を要約すれば、「自分にはバンドをまとめ、全員を食わせていくための独裁しか選択肢がなかった」という切実な生存本能でした。ジャズ喫茶の営業から全国ネットのテレビ番組へとステージを引き上げるためには、個々人のアドリブに頼る笑いではなく、秒単位で計算し尽くされた緻密な台本と徹底したリハーサルが不可欠だったのです。
一方で、脱退した小野ヤスシ側にも正当な大義がありました。小野は後年の対談番組やインタビューにおいて、「自分たちは自由なアドリブで客を沸かせたかった。いかりやさんの『音程が狂っている』『ギャグの間がコンマ何秒遅い』という軍隊のような縛りに耐えられなくなった」と語っています。ドンキーカルテットは結成後、小野の天才的なトーク力とジャイアント吉田のユーモアを武器に、日本テレビ系の『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』などで独自のポジションを確立。ドリフの緻密な構築美とは対極にある「アドリブと話芸のグルーヴ」で大衆を魅了しました。
後年、高木ブーや加藤茶が語った証言によると、いかりやの指導は過酷そのものでした。ネタ合わせ中に少しでも間が狂えば灰皿が飛び、練習は朝方まで及ぶのが日常茶飯事。しかし、高木ブーはこう述懐しています。「長さんは怖かったけれど、笑いに対して誰よりも誠実だった。長さんがすべての責任を背負って矢面に立ってくれたから、僕らはコントの中で自由に遊ぶことができた」。
分裂という痛烈な挫折を経験したいかりやは、新生ドリフにおいてメンバー各自に明確な「キャラクターの役割(記号性)」を配分しました。加藤茶には無邪気なボケ、仲本工事には飄々とした知性派、高木ブーには動じない無口な存在感、そして自らはすべてを受け止める憎まれ役のツッコミ。この徹底した組織的役割分担こそが、後に志村けんという爆発的な才能を受け入れ、さらなる巨大グループへと進化させる土台となったのです。