かつて鉄道写真といえば、先頭車両の形式美をいかに歪みなく、ブレずに捉えるかという職人芸的な厳密さが重視されていた。その張り詰めた空気に風穴を開けたのが、中井精也が提唱した「ゆる鉄」という新しい概念だ。
彼が目指したのは、主役である列車そのもの以上に、それを取り巻く風景や人々のドラマを描き出すことだった。「主役は列車ではなく、そこにある空気感」。この大胆な発想転換は、当時の写真業界に大きな衝撃を与えた。日本写真家協会(JPS)や日本鉄道写真作家協会(JRPA)の会員として確かな技術と実績を積み重ねながらも、彼は型にはまった権威主義に背を向け、誰もが笑顔になれる親しみやすいビジュアルを追求し続けた。
野良猫が日向ぼっこをする駅舎、草むらの奥をかすめる一両編成の気動車。肩の力を抜いたその視点は、鉄道マニアだけの閉じた世界を、誰もが参加できる開かれた表現の場へと変貌させたのだ。