占守島の戦いとは何だったのか?終戦後の激闘と北海道分断危機の真相

占守島の戦いとは何だったのか?終戦後の激闘と北海道分断危機の真相

占守島の戦いとは何だったのか?終戦後の激闘と北海道分断危機の真相の真相や最新動向に迫る! 専門的な視点でご紹介しています。

戦後の日本において、占守島の戦い 教科書に載らない真相として長らく議論されてきたのが、占守島の戦い 北海道分断危機との因果関係です。この戦いは単なる遠隔地の局地戦ではなく、もし守備隊が初動で即時降伏していれば、現在の日本の国土構造そのものがドイツや朝鮮半島のように南北に引き裂かれていた可能性を孕んでいました。

1945年8月16日、スターリンは米国のハリー・S・トルーマン大統領に対し、極秘書簡を送付していました。その内容は「留萌と釧路を結ぶ線より北側の北海道全域を、ソ連軍の占領下に置くことを認めるよう要求する」という極めて強硬なものでした。当時、スターリンの描いていたタイムスケジュールでは、8月19日までに占守島を制圧し、8月23日までに南千島を制圧、そして8月下旬には北海道北東部へ上陸部隊を送り込む計画が実動部隊に下達されていました。

しかし、占守島における日本守備隊の頑強な抵抗は、ソ連軍の予定表を致命的に狂わせました。わずか半日で片付くはずだった占守島の制圧に数日間を要し、上陸舟艇の大半を失ったソ連海軍には、千島列島を迅速に南下して北海道本島へ奇襲揚陸するだけの余力と船舶が消滅してしまったのです。

この占守島での遅延が決定打となり、8月18日、トルーマン大統領はスターリンの要求を「北海道本土の占領は認めない。米軍司令官マッカーサーの指揮下でのみ日本全体の降伏を受け入れる」と正式に拒否しました。スターリンはなおも北海道侵攻の準備を進めていましたが、米軍の断固たる態度と千島列島での足止めにより、8月22日についに北海道上陸作戦の中止命令を下さざるを得なくなりました。占守島の守備隊が示した命がけの抵抗は、ソ連軍の進撃の足を止め、北海道が赤化され南北に分断されるという未曾有の国家的分裂危機を水際で回避させたのです。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。