詩人がなぜここまで絶望的な倦怠に囚われたのか。その背景と理由を語る上で欠かせないのが、後に日本を代表する文芸批評家となる小林秀雄、そして女優志望の女性・長谷川泰子との抜き差しならない人間関係です。
同棲から親友への強奪|1925年の破綻劇
中原中也の生涯と経歴を辿ると、京都時代(1924年)に3歳年上の長谷川泰子と同棲を開始したことが文学活動の大きな転換点となっています。翌1925年に2人で上京した直後、中也は富永太郎を通じて小林秀雄と運命的な出会いを果たしました。小林の明晰な知性に心酔した中也でしたが、事態は急速に暗転します。
同年11月、泰子は中也のもとを去り、あろうことか小林秀雄と同棲を始めました。親友に最愛の恋人を奪われるという、青年の自尊心を粉砕するに十分な悲劇でした。しかし常人の理解を超えているのは、この奪還劇の後も3人の奇妙な交情が続いた点です。中也は小林と泰子が暮らす借家へ頻繁に上がり込んでは泥酔し、執拗に小林を挑発しながら居座り続けました。
小林秀雄の手記が語る中也の異様
小林秀雄は後に著した回想録『中原中也の思ひ出』の中で、当時の異様な関係性を克明に証言しています。小林は中也の訪問について「戸を開けると、中也が無言で立っている。彼は部屋の隅に座り、ただじっと私を睨み据えていた」と述懐しています。愛憎の境界が消滅し、小林の才能を認めながらも怨嗟を募らせ、同時に小林の中にしか己の痛みを理解できる者がいないという病的な共依存に陥っていました。
泰子と小林の関係もわずか半年余りで破綻しますが、中也の心に残った傷痕は消えませんでした。「汚れつちまつた」というフレーズは、敬愛する友への憧憬、恋人を奪われた屈辱、そしてその地獄のような三角関係を断ち切れず、無様にすがり続けた自分自身の矮小さに対する痛恨の告白だったのです。