現在、ピアノ楽譜を入手する手段は、紙の実物購入だけでなく、タブレット端末を用いた電子楽譜アプリやPDFダウンロードなど、多角化を極めています。その中で検索上位に必ず浮上するのが「無料楽譜」の存在です。没後50年(現行法では没後70年)が経過したドビュッシーの著作権は消滅しているため、パブリックドメインの楽譜を集めたIMSLP(国際楽譜ライブラリープロジェクト)などを経由すれば、誰でも合法的に『ベルガマスク組曲』第3曲「月の光」の楽譜を無料PDFとして手に入れることができます。
しかし、取材に応じた都内大手音楽教室のベテラン講師は、「無料だからという安易な理由でIMSLPのPDFをプリントアウトして持参する生徒ほど、序盤で譜読みに躓きやすい」と警鐘を鳴らします。無料楽譜の多くは、初版(1905年ウーゲル社など)の古いスキャンデータであり、以下のような演奏上の決定的な弊害を孕んでいるためです。
第一に、指番号(運指・フィンガリング)の記載がほぼ皆無である点です。『月の光』は黒鍵を多用する変ニ長調(Des-dur)であり、手の交差や旋律線を美しくレガートで繋ぐための緻密な運指計画が欠かせません。初級・中級者が指番号の手がかりなしに自力で運指を割り振ろうとすると、不自然な手首の捻りや無理な指くぐりが生じ、音楽的なフレージングが破綻する原因になります。
第二に、印刷の不鮮明さと誤刻のリスクです。解像度の低いスキャンデータでは、臨時記号の見落としやスラーの切れ目の判読ミスが頻発します。対照的に、音楽之友社や全音楽譜出版社、あるいはドイツのヘンレ社(G. Henle Verlag)といった商業出版社から刊行されている校訂版・原典版は、学術的な研究に基づき記譜の曖昧さを排除し、著名ピアニストによる実用的な運指が明記されています。数千円程度の初期投資を惜しんだ結果、誤った音配分や非効率な練習で何十時間も浪費してしまうことこそが、最大のコスト増であると言わざるを得ません。