世界を魅了する『もののけ姫』の音楽において、オープニングから圧倒的な存在感を放つのが「アシタカせっ記(せっき)」だ。この楽曲のタイトルにある「せっ記」の「せっ」は、本来は草冠に「耳」を二つ重ねた漢字(𦻙)であり、JIS漢字コードに存在しなかったため平仮名表記が採用された経緯がある。これは宮崎駿監督自らが考案した造語であり、「正史に記されず、人々の耳から耳へと口承された物語」という意味が込められている。
制作初期、宮崎監督はこの「アシタカせっ記」を映画本編の正式タイトルとして熱望していた。しかし、プロデューサーの鈴木敏夫氏がテレビ番組で電撃的に『もののけ姫』と発表したことでタイトルは変更され、その無念を汲み取った久石譲氏がメインテーマの題名として冠したという逸話が残る。勇壮でありながらどこか哀愁を漂わせるこの主旋律は、過酷な宿命を背負いながら生きるアシタカの気高さを象徴し、映画音楽の枠を超えたクラシックの名作として今なお国内外で高い評価を受け続けている。
この重厚な音世界において、鮮烈な異彩を放ったのが主題歌「もののけ姫」を歌い上げた米良美一氏の存在だ。当時、クラシック界以外では馴染みの薄かった「カウンターテナー(裏声を駆使する男性声楽家)」を大作アニメーションの主題歌に起用することは、前例のない挑戦であった。
起用のきっかけは、宮崎監督が事務所で偶然耳にした米良氏の松本民之助作品の歌声だったとされる。「男とも女とも、大人とも子どもともつかない透明な声響」に宮崎監督は直感的な確信を抱き、即座にオファーを出した。米良氏のデビューシングルとなった本楽曲は、オリコン最高13位を記録しながら異例のロングセラーとなり、実売40万枚以上を記録。その澄み切った歌唱は、過酷な自然界を生きるサン(もののけ姫)の純粋無垢な魂を代弁する役割を果たした。