車裂きの刑を語る上で避けて通れない人物が、中国戦国時代の秦の政治家である商鞅(しょうおう)です。商鞅は信賞必罰を徹底した過激な「変法」を推進し、小国だった秦を強国へと押し上げた功労者でした。しかし、その厳格な法適用によって旧貴族や太子側の恨みを買い、理解者であった孝公の死後に反逆罪の汚名を着せられます。
司馬遷の『史記』商君列伝によると、商鞅は逃亡の末に撃ち取られ、その遺体は秦軍によって持ち去られた後、渭水(いすい)のほとりで「車裂き」に処され、見せしめとして晒されました。自らが整備した過酷な法制度によって死後に車裂きにされたという皮肉な結末は、後代に強い警鐘として語り継がれています。秦代では他に、秦王政(後の始皇帝)の母と密通し反乱を企てた嫪毐(ろうあい)も一族もろとも車裂きの刑に処されたと記録されています。
一方、日本における歴史を見ると、律令法制上の「死刑」は主に「絞(首吊り)」と「斬(斬首)」の二種であり、公的な基本法典『養老律令』に車裂きの刑は規定されていません。しかし、戦国時代から近世初頭にかけての私刑や戦時慣行、軍記物の中には、罪人を牛の角や足に括り付けて引き裂く「牛裂き」の伝承が散見されます。
日本国内で記録に残る有名な逸話としては、室町末期から安土桃山時代にかけて、キリシタン迫害や謀叛人の処刑において牛を用いた引き裂きが行われたという俗説があります。ただし、江戸幕府が制定した『公事方御定書』などの確立された法体系では、死刑の極刑は「鋸挽き」や「磔(はりつけ)」「火罪」などに整理されており、恒常的な法定刑として車裂きが制度化された歴史的事実は確認されていません。
中国においても、漢代以降の儒教化や法制整備に伴い、あまりに野蛮な肉体破壊刑は徐々に敬遠されるようになります。唐代の『唐律疏議』では死刑が「絞・斬」に統合され、車裂きの刑は公刑としては姿を消しました。ただし、乱世や王朝交代期における臨時的な報復手段として、その名が歴史の表舞台に再浮上することはありました。