スーパーヒーロー映画の悪役という枠組みを完全に破壊し、一人の人間が体現しうる極限の混沌を描き切った点に、本作のジョーカーが持つ決定的な特異性があります。メガホンを取ったクリストファー・ノーラン監督は、コミック特有の荒唐無稽さを徹底的に削ぎ落とし、リアリズムに根ざした陰影深い犯罪ドラマとしてゴッサム・シティを再構築しました。その冷徹な世界観の中心に投下されたのが、理由なき悪意そのものであるジョーカーでした。
それまでの映画に登場した悪役の多くは、復讐、富、権力、あるいはトラウマといった分かりやすい動機を抱えていました。しかし、本作のジョーカーには金銭欲も支配欲も存在しません。バットマンの執事アルフレッドが劇中で語った「ある種の人間は論理を求めない。ただ世界が炎に包まれるのを見たいだけなのだ」という言葉通り、彼は社会が信奉するルール、モラル、秩序を根底から嘲笑し、崩壊させることだけを行動原理としています。
この空前絶後のキャラクター造形は、映画界最高峰の栄誉によって公に証明されることとなりました。第81回アカデミー賞において、故人となったヒース・レジャーへアカデミー助演男優賞が授与された出来事です。アメコミ原作の劇映画が演技部門のオスカーを獲得したのは史上初の快挙であり、演技者の死という悲劇的な文脈を抜きにしても、映画表現の到達点としてアカデミー会員を圧倒させた証左となりました。