下関条約で定められた賠償金2億両に、三国干渉による遼東半島還付報償金3,000万両、さらに威海衛駐兵費を加えた受取総額は、日本円にして約3億6,400万円に達しました。当時の日本の一般会計歳入が年間約8,000万円前後であった事実を考慮すると、国家予算の4倍を超える莫大な富が突如として国庫に流入したことになります。
日清戦争の賠償金の使い道は、詳細な大蔵省資料によってその配分が明らかになっています。配分の実態は以下の通りです。
賠償金の約8割以上に達する約3億1,000万円が、陸海軍の軍備拡張費(六六艦隊計画など)および戦費の穴埋めに充当されました。新興国として欧米列強の圧力に対抗するため、軍事力の急速な底上げが最優先されたのです。しかし、残る約2割の投資先こそが、近代日本の産業地図を塗り替えました。
その代表格が、官営八幡製鉄所の建設です。日清戦争を通じて軍需用鉄鋼の大部分を輸入に依存していた日本政府は、重工業の自立を急務とし、賠償金の一部(約579万円)を原資に製鉄所建設を決定しました。1901年に福岡県八幡村で火入れを行った八幡製鉄所は、大冶鉄鉱石や筑豊炭田の石炭を活用し、日本の近代重工業化の強固な背骨となったのです。
さらに見逃せない歴史的功績が、金本位制の確立です。賠償金はロンドンのイングランド銀行に英ポンド建ての金貨で預け入れられました。当時の蔵相・松方正義はこの巨額のポンドを正貨準備とし、1897年に貨幣法を制定して長年の懸案であった金本位制への移行を断行しました。これにより為替リスクが劇的に低減し、日本企業の外債発行や国際金融市場への直接アクセスが可能となり、日本資本主義のテイクオフ(離陸)が一気に加速したのです。