教育勅語は決して一人の手で一朝一夕に作られたものではありません。そこには、欧米近代法を重んじる法制官僚・井上毅(いのうえ こわし)と、儒教的統治を志向する侍講・元田永孚(もとだ ながざね)による激しい思想闘争がありました。 当時の日本は、急速な欧化主義の反動として道徳の荒廃が叫ばれており、明治天皇自身も道徳教育の確立を強く求めていました。しかし、起草を命じられた井上毅は以下の点に強くこだわりました。
- 政治と道徳の分離:憲法や行政法規で道徳を直接命令することは立憲主義に反するため、法律(教育令)ではなく天皇の言葉(勅語)にとどめること。
- 宗教色・特定学派の排除:特定の儒教用語や西洋哲学の専門用語を極力避け、国民誰もが納得できる平易な訓示とすること。
- 信教の自由の配慮:キリスト教徒など特定の信仰を持つ臣民を弾圧する口実にならないよう、抽象的かつ普遍的な表現を用いること。
一方の元田永孚は、天皇親政と儒教的道徳(仁義忠孝)を国家の柱に据えるべきだと主張しました。最終的には井上毅の緻密な法治主義的配慮がベースとなりつつも、元田の皇室尊崇思想が盛り込まれる形で妥協が図られました。明治天皇の意図は、西洋近代化を推し進めつつも国民の精神的紐帯を保つ「バランサー」としての道徳規準を打ち立てることにありました。