凌遅刑の歴史と真相|なぜ生きたまま肉を削ぐ残虐刑は清末まで続いたのか

凌遅刑の歴史と真相|なぜ生きたまま肉を削ぐ残虐刑は清末まで続いたのか

凌遅刑の歴史と真相|なぜ生きたまま肉を削ぐ残虐刑は清末まで続いたのかにまつわる興味深い視点を分かりやすく発信ます。

凌遅刑の執行方法は、時代や地域、罪の重さによって細かく規定されていました。公開処刑場に立てられた木柱に罪人を縛り付け、専門の刑吏(劊子手)が専用の小刀を用いて肉を薄片にして切り落としていきます。

明代の記録によると、典型的な手順は極めて機械的かつ計画的でした。まず乳房や胸元の肉を削ぎ落とし、続いて腕、太もも、ふくらはぎの筋肉を徐々に削いでいきます。その後、耳、鼻、指先などの末端を切り落とし、内臓を引き出し、最後に心臓を刺すか首を刎ねて絶命させ、遺骸を四肢切断して骨を砕くという順序が踏まれました。刑吏には「指定された回数を切り終えるまで罪人を生かしておく」高度な技術が求められ、途中で罪人をショック死させた刑吏自身が処罰の対象となることすらありました。

対象人物・事件罪状・背景執行刀数・期間歴史的背景と記録の実態劉瑾(明代・宦官)謀反・皇帝暗殺未遂3,357刀(3日間)正徳5年(1510年)。初日に300回以上削がれた後、夜には粥を食わされ、2日目に絶命。規定の刀数に達するまで死後も切り刻まれた。袁崇煥(明代・武将)後金(清)との内通(冤罪)約3,000刀(半日〜1日)崇禎3年(1630年)。皇太極の離間策にかかった崇禎帝により処刑。北京の民衆は彼を売国奴と信じ込み、削ぎ落とされた生肉を競って買い求めて食したと伝わる。石達開(太平天国・翼王)国家反逆(清朝への反乱)1,000刀以上同治2年(1863年)。四川省成都で執行。四川総督・駱秉章の記録によれば、全身を切り刻まれる間、石達開は一言の呻き声も上げず刑吏を睨み据えていたとされる。福珠哩(清代・召使)主人(モンゴル親王)殺害短時間の簡略化された執行光緒31年(1905年4月)。北京の菜市口で執行。フランス軍人らにより写真撮影され、国際的な衝撃を与えた。このわずか2週間後に凌遅刑は公式廃止された。

凌遅刑の対象となった罪状は極めて限定的でした。具体的には、「十悪」に数えられる謀反・謀大逆(皇室への反逆)、親や夫を殺害する尊属殺人、あるいは一家3人以上を殺害した凶悪事件などに限られていました。一般の殺人犯に科されることはなく、「権力体制の破壊者」や「儒教的家族秩序の破壊者」に対する政治的・教化的な最終兵器だったのです。

高橋 健太
著者

高橋 健太

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。