薬子の変 なぜ起きたのかという根源的な疑問を読み解く鍵は、当時の皇室が抱えていた深刻な構造的欠陥、すなわち「上皇(太上天皇)と在位の天皇による二重権力」にあります。
806年に即位した平城天皇は、父である桓武天皇の急進的な政策(平安遷都や蝦夷征服)によって疲弊した財政の再建を目指し、行政機構の統廃合や厳しい倹約令を断行しました。しかし、生来病弱であった平城天皇は激務から心身の不調を訴え、在位わずか3年余りの809年(大同4年)、弟の神野親王(後の嵯峨天皇)に皇位を譲り渡します。このとき平城は、まだ20代半ばの嵯峨を支える後見役として院政的な影響力を残す思惑を抱いていました。
健康を回復した平城上皇は、翌810年に旧都である平城京(奈良)へと居所を移します。この瞬間、政治の中心地が平安京と平城京の二拠点に分裂する「二所朝廷」が成立しました。上皇の健康回復に伴い、不満を抱える官人層や旧勢力が平城京に結集し始め、平安京の嵯峨天皇と平城京の上皇の双方が独自に勅令や太上天皇命を発布するという、統治機構の機能不全が生じたのです。
両者の政治路線の乖離は決定的でした。平城上皇が打ち出した厳格な財政引き締め策に対し、嵯峨天皇は宮廷儀礼の整備や唐風文化の積極的な導入など寛容かつ華やかな親政を志向します。国家意思の決定権が二つに割れた状態は、律令制の基本理念である「王権の一元性」を根底から揺るがすものでした。
決定的な導火線となったのは、810年9月6日、平城上皇が突如として下した「平安京を廃止し、平城京へ還都せよ」という命令でした。莫大な国家予算を投じて造営された平安京を捨て去る平城還都令は、嵯峨天皇政権に対する事実上の宣戦布告であり、薬子の変 原因の核心はまさにこの統治権の奪還劇にありました。