ネット上のQ&AコミュニティやSNS上には、吸引処置に関する危険な誤解が散見されます。最も警戒すべきは「吸引圧を限界まで強くすれば痰がすっきり取れる」という思い込みです。
喀痰が粘っこいからといって、吸引器の圧力調整ダイヤルを最大(-80kPa以上)にして引き抜こうとすると、気道粘膜の表皮が剥離して出血し、かえって炎症を悪化させて痰の分泌を増大させます。それだけでなく、急激な陰圧によって肺の一部が虚脱する「無気肺」を引き起こしたり、迷走神経が刺激されて急激な徐脈(心拍数低下)や心停止を誘発するリスクすら存在します。日本呼吸療法医学会のガイドラインでも推奨されている通り、吸引圧の適正範囲は成人の場合で-13.3〜-20.0kPa(最大でも-26.7kPa程度)、小児では-8.0〜-13.3kPaに設定するのが原則です。
また、「家庭用の電動鼻吸い器のアタッチメントを付け替えれば、成人の痰も吸引できる」という言説も極めて危険です。家庭用鼻吸い器は陰圧の立ち上がり速度(レスポンス)が遅く、気道奥深くの粘稠分泌物を引き寄せるだけのパワーがありません。吸引が遅延して処置時間が延びれば、その間患者は窒息状態に置かれ、深刻な低酸素血症を招くことになります。
さらに、法的な権限に関する誤解も根強く残っています。喀痰吸引は医師法上の「医行為」に該当するため、家族以外の介護職員が痰の吸引を実施するには、社会福祉士及び介護福祉士法に基づく所定の研修(実地研修を含む)を修了し、都道府県から認定特定行為業務従事者としての認定を受ける必要があります。善意であっても無資格者が安易に他人の吸引処置を代行することは法律で固く禁じられています。