現代の感覚では、「遊び」といえばゲームやレジャー、息抜きといった余暇の活動を連想しがちです。しかし、平安時代中期から後期にかけての日本語において、「遊び」が指す概念ははるかに重層的でした。
当時、「遊び」とは雅楽の演奏や管弦の宴、神仏を歓待するための芸能全般、さらには大人が我を忘れて打ち込む芸能活動を指していました。また、「戯れ(たわぶれ)」は男女の情交や浮世の享楽、道化た振る舞いを含意しています。
治承3年(1179年)頃、保元・平治の乱を経て平氏政権が絶頂を迎え、源平の争乱へと突き進む緊迫した時代において、庶民の日常は飢餓と死に隣り合わせでした。鴨長明が『方丈記』で記録した安元の大火(1177年)や養和の飢饉(1181〜1182年)に見られるように、京都の街路角には累々と遺体が積み重なっていた時代です。
そうした極限の現実の中で、大人は生活の苦難に縛られ、政治や権力、日々の糧を得るための労働にすり減っていました。ふと耳に入ってくる「無邪気に笑い転げる子どもたちの歓声」。明日をも知れぬ過酷な世界で、何の見返りも求めずただ全力で「今」を生きている幼児たちの姿を目にしたとき、大人の胸中に去来したのは、微笑ましさだけではありません。「自分は何のために生まれ、何のために汲々として苦しんでいるのか」という、圧倒的な羨望とやるせなさ、そして魂の激震だったのです。