三国志の王朝は一体なぜ誕生し、最後はどうなったのか。その起点となったのは、後漢滅亡の真相に他ならない。霊帝の崩御に伴う宮中クーデターで宦官が粛清され、軍閥の董卓が上洛したことで中央政府の求心力は完全に失墜した。群雄が割拠するなか、漢の天子である献帝を手中に収めて「官軍」の看板を手に入れたのが曹操であった。
曹操は自ら帝位に就くことなく生涯を終えたが、その跡を継いだ曹丕は220年、献帝に帝位を譲らせる「禅譲(ぜんじょう)」という形式を踏んで皇帝に即位した。これが曹丕の禅譲と魏王朝の幕開けである。力による簒奪(さんだつ)ではなく、天命が徳のある者に移ったとする儒教的セレモニーを演出し、中原の支配者としての正統性を打ち立てた。
これに対し、漢の皇室の後裔を自認する劉備は猛反発した。「曹丕が帝位を簒奪し、漢の血脈を断絶させた」と主張し、翌221年に成都で皇帝に即位。自らの国号を「漢」(歴史上は蜀漢と区別される)と定め、自らこそが漢王朝の唯一正統な継承者であると宣言した。一方、江東の孫権は魏と蜀の動向を冷徹に見極め、当初は魏の曹丕から「呉王」の冊封を受けて臣従のポーズを取りつつ、実利を確保。国力が安定した229年に至ってようやく皇帝を名乗り、ここに「魏・蜀・呉」の三国鼎立が制度的にも完成した。
しかし、この鼎立状態は恒久的な平和をもたらさなかった。勝敗の歯車を決定づけたのは、国力差と内部崩壊の速度である。最初に対処不能の破局を迎えたのが、領土・人口ともに最小だった蜀漢であった。諸葛亮の死後、軍権を握った姜維が北伐を繰り返して国力を浪費する中、宮廷では宦官の黄皓が専横を極めた。263年、魏の権力者・司馬昭が派遣した鄧艾と鍾会の軍勢によって成都を急襲され、劉禅は戦うことなく降伏。蜀漢は三国の先陣を切って地図から姿を消した。
蜀を併呑して圧倒的な国力を手にした魏の宮廷では、すでに曹氏の皇帝は操り人形に過ぎなかった。司馬昭の長男である司馬炎は、かつて曹丕が後漢の献帝に対して行ったのと全く同じ筋書きで、265年に魏の元帝(曹奐)から禅譲を受け、西晋を建国した。これが司馬炎と西晋建国の瞬間である。
残された呉は、名君と称された孫権の死後、凄惨な権力闘争に突入していた。最後の皇帝となった孫皓の暴政によって人心は完全に離反。280年、西晋が水陸両面から送り込んだ数十万の大軍の前に長江の防衛ラインはあっけなく崩壊し、孫皓は降伏した。ここに後漢末期から約100年続いた乱世は終焉を迎え、晋王朝の統一経緯は幕を閉じたのである。