黒田博樹が背負う以前、広島東洋カープの背番号15は決して空き番の多い欠番予備軍ではなく、むしろ「主力本格派右腕やチームの屋台骨が背負う実力派の系譜」であった。戦後復興期の1950年代から現在に至るまでの変遷を辿ると、この番号が背負ってきた独自の重みが浮き彫りになる。
草創期の1952年から1961年にかけて15番を背負った備前喜夫は、通算115勝を挙げた初期の大エースであり、引退後はスカウト部長として前田智徳や金本知憲らを発掘した球団史の最重要人物の一人である。その後、及川美喜男を経て、阪神から復帰した名投手・安仁屋宗八が1970年代後半に着用。1980年代には大型右腕の金石昭人が背負い、先発・抑えとして1986年や1991年のリーグ優勝に大きく貢献した。
黒田の前任者であった紀藤広光もまた、1994年に最高勝率(16勝5敗、勝率.762)のタイトルを獲得した屈指の右腕である。1996年秋、ドラフト2位(逆指名)で専修大学から入団した黒田博樹に15番が引き継がれた際、周囲は「ドラフト上位の期待の即戦力本格派に託された番号」として受け止めていた。
入団当初の黒田は制球難に苦しみ、決して完成された投手ではなかった。しかし、血の滲むような投げ込みと完投へのこだわりを通じて、徐々に「カープのエース」へと成長していった。黒田自身の手記やインタビューでも「最初は15番に特別な愛着があったわけではない。だが、投げ続けるうちにこの番号が自分自身の皮膚のようになっていった」と述懐されている。歴代の職人肌の先輩たちが耕した土壌に、黒田が魂を吹き込んだことで、15番は唯一無二の輝きを放ち始めたのである。