本場では牛生肉だったカルパッチョが、なぜ日本国内でこれほどまでに「白身魚の冷菜」として浸透したのでしょうか。その背景には、1980年代の日本の食文化事情と、一人の名日本人シェフによる大胆なイノベーションがありました。
立役者となったのは、日本のイタリア料理界を牽引し続ける「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」の落合務シェフです。1980年代初頭、東京・六本木のイタリア料理店「グラナータ」で総料理長を務めていた落合氏は、本場の牛肉カルパッチョをメニューに載せようと試みました。しかし、当時の日本には生の牛肉を前菜として大皿で食す習慣がまだ根付いておらず、衛生管理面や仕入れの難しさ、何より客側の心理的ハードルが高かったのです。
そこで落合シェフが着目したのが、日本人が愛してやまない「鮮魚の生食文化」でした。「新鮮な生の魚を薄く引き、オリーブオイルと柑橘で仕立てれば、日本人の味覚に完璧に寄り添うイタリア料理になるのではないか」。このひらめきから、タイやスズキなどの白身魚を使った日本版カルパッチョが誕生しました。
刺身に慣れ親しんでいた日本人の舌に、上質なエキストラバージンオリーブオイルのコクと柑橘の爽やかさは鮮烈な驚きを与えました。落合シェフの逆転の発想は瞬く間に全国のレストランへ波及し、現在では「カルパッチョ=新鮮な魚介をオイルと塩で食べる料理」という独自の食文化として不動の地位を築いたのです。現在では本国イタリアへもこの魚版カルパッチョが逆輸入され、シチリアなどを中心に広く楽しまれています。