「なぜ県名と県庁所在地の名前がバラバラなのか」という疑問には、1871年(明治4年)に断行された廃藩置県の歴史的経緯が直結しています。
明治政府は、全国に約300あった藩を一掃し、中央集権国家を築くために府県の統廃合を繰り返しました。その過程で県名と都市名が分かれた背景には、主に3つのパターンがあります。
第1に、広域の「郡名」を県名に採用したケースです。例えば、神奈川県は開港場となった「横浜村」ではなく、その一帯を管轄していた「橘樹郡神奈川町」の名が県名に採用されました。愛知県も名古屋城下の広域地名である「愛知郡」に由来しています。
第2に、長年定着した都市名の維持です。石川県金沢市の場合、加賀藩前田家の城下町として「金沢」の名が圧倒的な知名度を誇っていましたが、新政府は県庁を一時的に石川郡美川町へ移転させた経緯から「石川県」と命名されました。その後、県庁が再び金沢に戻ったものの、県名自体はそのまま残されたという事情があります。
第3に、歴史ファンや研究者の間で長く議論されている「官軍・賊軍への懲罰説」です。「戊辰戦争で明治政府軍に反旗を翻した旧幕府側(朝敵)の藩は城下町名を県名にさせてもらえず(例:会津→福島県、盛岡→岩手県、仙台→宮城県)、政府側だった藩は城下町名がそのまま県名になった(例:薩摩→鹿児島県、長州→山口県)」という説です。公的文書で明言されてはいないものの、統廃合時の政治力学を物語るエピソードとして語り継がれています。