机上の空論ではなく、実際の現場で「平等」と「公平」はどのように機能しているのでしょうか。医療現場、公立学校の教育現場、そして企業の採用現場の実態を検証すると、形式的な平等がいかに危険な結末を招くかが浮き彫りになります。
象徴的なのが、看護医療における平等と公平の運用です。救急外来や災害医療の現場で行われる「トリアージ(治療優先度選別)」は、公平の極致と言えます。もし救急医療で「すべての患者を平等に扱う」という建前を墨守し、到着順に一律15分ずつの診察を行ったらどうなるでしょうか。軽度の擦り傷を負った患者を先に診察している間に、背後で心肺停止状態の重篤患者が命を落とす医療事故が頻発します。
ある大学病院の救急救命センターに勤務する認定看護師は、現場の取材に対して次のように胸中を語っています。
「新人の頃は『どの方も同じ患者さんだから、平等に接しなければ』と思い込みがちです。しかし現場では、病態の重症度だけでなく、高齢で認知機能の落ちた方や身寄りのない方には、生活背景まで考慮した濃厚な看護計画を組みます。他の患者さんから『あの人ばかり手厚く見てもらっている』と苦情を受けることもありますが、全員に同じ時間を注ぐのは医療倫理に反する手抜きです。重症度と社会的リスクに応じて資源を偏らせることこそが、真の平等=公平だと叩き込まれます」
次に教育の現場を見てみましょう。公立小学校や中学校の平等と公平道徳授業の指導案では、このテーマが頻繁に扱われています。かつて昭和から平成初期の学校現場では、「平等」の解釈が極端に硬直化し、給食の残食を誰であろうと絶対に許さなかったり、運動会で順位をつけずに全員で手を繋いでゴールさせたりする現象が見られました。しかしこれは公平ではなく、個性の剥奪と画一的な抑圧に過ぎませんでした。
文部科学省の学習指導要領改訂以降、道徳の授業では平等と公平の違い具体例と理由を生徒自身に考えさせる授業が主流となっています。例えば、「足を骨折しているクラスメイトに掃除当番を免除するのは不公平か?」「眼鏡をかけている人が前列の席に座るのはエコ贔屓か?」といった身近な問いです。身体的特徴や家庭環境が異なる子どもたちに対し、平等と公平の違いわかりやすく子ども向けに伝える際、熟練の教員は次のように教示します。
「平等っていうのは、全員に同じルールや同じ鉛筆を配ること。でも、左利きの子に右利き用のハサミを『平等だから』って渡したら切れないよね。その子が右利きの子と同じように工作を楽しめるように、左利き用のハサミを用意してあげること。それが『公平』だよ」
この説明に、教室の子どもたちは例外なく納得の表情を浮かべます。子どもであっても、実質的な困りごとに手を差し伸べることの正当性を直感的に理解できるのです。