幕府が万延元年(1860年)閏3月に布告した触書は、極めて峻厳な文言で江戸廻送を命じていた。「五品の儀は必ず江戸問屋へ差送り、市中手当を遂げ候上、相余り候分横浜へ差出すべく候」。違反した者は厳罰に処すと脅したものの、現場の実態は真逆の展開をたどる。
当時の上州の豪農・豪商の手記や取引記録には、夜陰に乗じて江戸を迂回し、八王子などを経由する山道(いわゆる「絹の道」)を抜けて横浜へ荷駄を急がせる緊迫した様子が生々しく残されている。ある商人の日記には「役人の目は厳しけれど、横浜にて手に入る金の魔力には代え難し」といった述懐が記されており、一度味わった自由市場の莫大な利益を手放す者など誰もいなかった。
さらに、横浜に駐在していた外国人商人たちの反発も凄まじかった。初代英国公使オールコックは、自著『大君の都(The Capital of the Tycoon)』のなかで、幕府のこの措置を「条約に明記された自由通商の権利を侵害する陰湿な貿易妨害」と厳しく断罪している。江戸の役人が物資を差し押さえようとするたびに、英米の外交官は「条約違反であり、即刻軍艦を派遣して抗議する」と幕府に激しい圧力をかけた。
国内の在郷商人からは裏ルートで無視され、海外列強からは条約違反だと恫喝される――。板挟みとなった幕府の役人は、横浜港に入る荷物の出所を実質的に見逃すしかなく、法令は発令から間もなく「名ばかりの紙切れ」へと堕ちていった。