茨城県立水戸商業高校から1953年に西鉄ライオンズへ入団した豊田泰光は、春季キャンプから当時の名将・三原脩監督の目を奪いました。高卒新人ながら開幕から正遊撃手に抜擢されると、打率.281、27本塁打、59打点という驚異的なスタッツを叩き出し、満場一致でパ・リーグ新人王を受賞。高卒新人の27本塁打は、現在に至るまで歴代最高峰の金字塔として語り継がれています。
当時の西鉄は、三原監督のもと「野武士軍団」と称される豪放磊落なチームカラーを誇っていました。その中心にいたのが、怪童・中西太、天才打者・大下弘、そして若き豊田泰光でした。豊田は入団4年目の1956年、打率.325を記録して激しい争奪戦を制し、パ・リーグの首位打者を獲得。チームをパ・リーグ優勝へと力強く牽引しました。
同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズ第6戦では、自らのバットで球団史上初となる日本一決定サヨナラ本塁打を放ち、平和台球場を熱狂の渦に巻き込みました。さらに1958年の日本シリーズでは、巨人に3連敗を喫した絶体絶命の淵から、鉄腕・稲尾和久の獅子奮迅の登板と豊田らの猛打によって奇跡の4連勝を飾り、球史に刻まれる西鉄黄金期の3連覇を成し遂げたのです。