新選組総長・山南敬助の脱走と切腹の真相|土方歳三との確執と明里の涙

新選組総長・山南敬助の脱走と切腹の真相|土方歳三との確執と明里の涙

新選組総長・山南敬助の脱走と切腹の真相|土方歳三との確執と明里の涙にまつわる役立つ知識を詳しく紐解きます。

元治2年2月22日(1865年3月19日)、山南敬助は置き手紙を残し、忽然と壬生の屯所から姿を消しました。向かった先は江戸方面であり、近江国草津(現在の滋賀県草津市)の宿場に滞在していたところを、追手として派遣された沖田総司によって確保されます。新選組の最高幹部であり、組織の法を熟知していたはずの総長が、なぜ死罪を意味する「隊の脱走」という暴挙に出たのか。歴史研究において指摘される決定的な要因は以下の4点に集約されます。

1. 西本願寺への屯所移転に対する強硬な反対

当時、隊士の増員によって手狭になった壬生屯所から、長州系志士の潜伏拠点とも目されていた西本願寺へと屯所を移転する計画が進んでいました。山南はこの移転に猛烈に反対しました。広大な寺院を武力で威圧し、強引に本拠とすることは民衆や門徒の激しい反発を招き、幕府軍としての道義を失うと判断したためです。しかし近藤と土方は山南の意見を退け、移転を強行。自らの発言権が完全に失墜したことを山南は痛感しました。

2. 尊王攘夷思想と「幕府直参化」の路線対立

山南は清川八郎が唱えた本来の「尊王攘夷」の気概を強く持ち続けていた純粋な志士でした。しかし池田屋事件の功績により、新選組は会津藩を通じて幕府中央に組み込まれ、やがて幕臣(直参)としての地位を得る道へと邁進します。「天下のための尊皇」ではなく、「一握りの権力機構の走狗」へと変質していく組織の行く末に、山南は深い絶望を抱いていたとされます。

3. 近藤勇の増長とワンマン化への「諫死」

地位と名声を得た近藤勇は、次第に武士としての傲慢さを見せるようになり、妾を囲うなど生活態度にも変化が生じていました。試衛館時代から苦楽を共にしてきた盟友として、山南は近藤の暴走を命がけで止めようとしました。自らの死をもってトップの覚醒を促す、いわゆる「諫死(かんし)」の意図が脱走という行為の深層にあったという見解は、多くの歴史研究者からも支持されています。

4. 「本気で逃げる気がなかった」という決定的な事実

山南ほどの武芸の達人が、本気で京都から脱出する意志を持っていたならば、京都からわずか数十キロの草津で易々と追手に捕まるはずがありません。山南は草津の宿で静かに沖田総司を待っていた節があります。脱走すれば局中法度により「隊を脱するを許さず」「士道に背き間敷事」の条項に抵触し、切腹は免れません。山南は法度の絶対性を誰よりも理解した上で、自らを処刑台に上げることで、新選組の在り方に無言の抗議を突きつけたのです。

渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。