ことわざ辞典や一般的な会話において、初心忘るべからず 本当の意味は「物事を始めた当時の初々しさや真剣さ、謙虚な気持ちを持ち続けよ」と解説されがちです。しかし、この言葉の生みの親である室町時代の天才能楽師・世阿弥(1363〜1443年)が著した芸術論書『花鏡(かきょう)』を精読すると、そのニュアンスは驚くほど異なります。
世阿弥が意図した「初心」とは、みずみずしい希望や憧れといった情緒的な感情ではありません。芸を始めたばかりの「下手くそで未熟だった姿」「恥をかいた経験」「不器用だった自分の拙さ」を指しています。人間は年齢を重ねてある程度の実力がつくと、過去の至らなさを忘れ、現在の実力に自惚れてしまいがちです。世阿弥は、その慢心こそが芸の行き詰まりや転落を招く最大の敵であると見抜いていました。
若い頃の拙い芸を生涯忘れずに記憶の底に留めておくことで、現在の自分の位置を客観視し、「あの未熟な状態には二度と戻りたくない」「まだ工夫の余地がある」と自らを律し続けることができます。つまり、「初心忘るべからず」の神髄は、過去の甘酸っぱい思い出に浸ることではなく、「過去の未熟さを物差しにして、現在の下落を防ぎ進化を続けるための冷徹なリスクマネジメント」に他ならないのです。