石井筆子(旧名:渡辺筆子)は1861年(文久元年)、肥前大村藩の勘定奉行を務めた渡辺清の長女として生まれました。幼少期から卓越した語学の才能を示した筆子は、官立東京女学校で学んだ後、1882年(明治15年)に欧州へと渡り、フランスを中心に西洋の進歩的な女子教育と教養を吸収しました。
帰国後の筆子は、卓越したフランス語力と洗練された西欧マナーを兼ね備えた当代屈指の才媛として脚光を浴びます。鹿鳴館の舞踏会では中心的な存在となり、明治政府の要人や外国外交官からも一目置かれる「鹿鳴館の貴婦人」としてその名を轟かせました。
その後、筆子は華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)のフランス語教官に就任します。当時、同校で英語を教えていた津田梅子(津田塾大学創設者)や、校幹事を務めていた下田歌子らと共に、日本の近代女子教育の基礎を形作りました。当時の記録や同僚の手記からも、筆子が単なる語学教師にとどまらず、自立した女性の尊厳を生徒たちに熱心に説いていた様子が克明に伝えられています。