一代で莫大な富と権力を手中に収め、十数人もの側室を抱えた秀吉ですが、記録に残る実子は長浜城主時代の長男・石松丸(羽柴秀勝/信憑性に諸説あり)、そして淀殿が生んだ鶴松と秀頼のわずか3名に過ぎません。この極端な少なさは、同時代の徳川家康(16名以上)や毛利元就らと比較しても際立っています。
秀吉に子供が少ない理由として、現在医学の観点からも最も有力視されているのが、秀吉自身の「乏精子症」あるいは「精巣機能不全」による男性不妊の可能性です。若い頃から多数の女性と関係を持ちながら、30年近くにわたり実子が誕生しなかった事実がその蓋然性を強く補強しています。
この不妊疑惑が引き金となり、歴史ミステリーとして根強く囁かれ続けているのが豊臣秀頼の父親説です。秀吉が57歳の時に誕生した秀頼について、「秀吉の実子ではなく、淀殿が側近と密通して産んだのではないか」という疑念が当時から巷間で囁かれました。候補として名前が挙がった人物には次のような武将たちがいます。
- 大野治長:淀殿の乳母である大蔵卿局の息子で幼馴染。大坂城で側近として権勢を振るったため、最も密通を疑われた人物。
- 石田三成:淀殿と政治的に協調していた文治派の領袖。ただし後世の創作物による脚色が極めて濃厚。
- 名古屋山三郎:織田一族の流れを汲む当代随一の美男子。茶々の従兄弟にあたり、浮名を流した噂が存在。
秀頼が成長するにつれ、父親似とされた小柄な秀吉とは対照的に、「身長六尺五寸(約197cm)、体重四十三貫(約160kg)」という並外れた巨漢に育ったことも、父親別人説に拍車をかけました。しかし、母である茶々自身も浅井長政と市(信長の妹)という高身長家系の血を引いており、母方の遺伝的特徴が強く現れたと解釈するのが極めて自然です。公的文書において秀吉自身が秀頼を我が子として熱狂的に認知・溺愛していた以上、歴史的事実としては「豊臣秀吉の嫡男」として扱うのが客観的妥当性を持ちます。