なぜここまで根強く自殺説やダークな憶測が囁かれたのでしょうか。そこには、当時読者の間で取り沙汰されたふたつのトピックが大きく関係しています。
1. 「最後の原稿」における不穏なセリフという誤解
当時、月刊『まんがタウン』に掲載された『クレヨンしんちゃん』のエピソードの中に、幼稚園のまつざか先生の恋人である徳郎(行田徳郎)が海外の爆弾テロに巻き込まれて命を落とすという、ギャグ漫画らしからぬシリアスで重い展開がありました。さらに、しんのすけが「オラ、もうすぐいなくなっちゃうのかなあ」とつぶやくカットが存在したとして、ネット上では「臼井先生が自身の死を予期して残したメッセージではないか」と騒がれました。
しかし、双葉社の担当編集長は記者会見においてこの見解を完全に否定しています。徳郎のエピソードは前年から構想されていた長期的なドラマ展開の一部であり、しんのすけの台詞もストーリー上の前後の文脈を都合よく切り取られたものに過ぎませんでした。漫画家が作品世界の中で試行錯誤していた物語のアクセントを、原作者の私生活の心理状態と短絡的に混同してしまった読者側の認知バイアス(確証バイアス)が生んだ齟齬だったといえます。
2. 新興宗教への傾倒・金銭トラブルの噂
臼井氏は生前、自身のプライベートや家族関係を表に露出させない方針を貫いていました。「子どもの夢を壊さないため、ギャグ漫画の作者は顔を出さないほうがいい」というプロ意識から、顔写真の公開を厳格に断っていたのです。この徹底したメディア露出拒否のスタンスが、逆に憶測を呼ぶ土壌となりました。
週刊誌等で「とある新興宗教の熱心な信者であり寄付金を巡って悩んでいた」といった記事が掲載されたこともありました。しかし、遺族関係者や双葉社幹部への継続的な取材で、巨額の金銭トラブルや宗教的な苦悩によって精神的破綻をきたしていたという事実は確認されていません。日頃から趣味として山歩きを親しんでいた臼井氏にとって、荒船山行きは日々の執筆の合間を縫った極めて日常的なリフレッシュ行動の一環だったのです。