現地である長崎県島原市の沖田畷古戦場跡を訪れると、当時の合戦現場がいかに閉塞された空間であったかがよく分かります。雲仙岳の裾野から有明海へと落ち込む扇状地の末端に位置し、水田の下には粘土質の泥層が広がっています。鎧兜をまとった武者が一度足を踏み入れれば、自力で抜け出すことは極めて困難です。
前線が崩壊した報を受けた龍造寺本陣は、混乱の極みに達しました。晩年の隆信は過度の肥満により馬に乗ることができず、大名としては異例の「駕籠(かご)」に乗って指揮を執っていたと伝えられています。退却しようにも泥濘に足を取られ、駕籠を担ぐ従者たちも次々と倒れていきました。
主君の危機に際し、主力を率いていた鍋島直茂は再三の退却を進言するも届かず、戦線が崩壊する中でやむなく後退を決断。本陣を守るべく奮戦したのが、「龍造寺四天王」と称された猛将たちでした。
- 百武賢兼(ひゃくたけ ともかね):武勇百人に匹敵すると称された豪傑。本陣へ迫る島津勢を食い止めるため敵中へ突撃し壮絶な討死。
- 成松信勝(なりまつ のぶかつ):今山合戦で敵将を討ち取った歴戦の勇士。主君の身代わりとなるべく奮戦し戦死。
- 円条寺信胤(えんじょうじ のぶたね):隆信の影武者となって敵を引きつけ、時間を稼ぎながら討死。
- 江里口信常(えりぐち のぶつね):島津家久の本陣に単身切り込み、家久に手傷を負わせる寸前で討ち取られたと伝わる勇将。
彼ら側近の決死の防戦も虚しく、島津方の武将・川上忠堅によって駕籠の中の龍造寺隆信は首を討ち取られました。戦国時代を通じて、大大名の総大将が合戦場で直接首を取られる事例は、桶狭間の戦いにおける今川義元、あるいは長篠の戦い後の諸将を除けば極めて稀な出来事でした。