中山若頭らの射殺という電撃作戦により、一時は優位に立ったかに見えた一和会でしたが、その代償はあまりにも過酷なものでした。最高幹部を失った山口組は、渡辺芳則(後の五代目組長)や宅見勝らを中心に復讐戦体制を整え、全国規模で一和会に対する猛烈な報復攻撃を展開しました。
特に中山を失った高知の豪友会は、初代会長の無念を晴らすべく抗争の急先鋒となり、全国の一和会系拠点に激しい攻撃を加えました。襲撃に携わった一和会系ヒットマンたちは次々と逮捕され、組織は急速に資金難と組員の脱退に追い込まれていきます。
結果として、1989年に一和会は解散に追い込まれ、山口組の一強体制が確立されることとなりました。しかし、白昼堂々の市街地戦や一般市民を巻き込む発砲事件が多発した山一抗争は、警察当局による取り締まりの大幅な強化を招き、1992年の暴力団対策法(暴対法)施行へとつながる最大の要因となったのです。