青年将校たちが最大の計算違いをしたのは、崇拝していたはずの昭和天皇の反応でした。陸軍首脳部が「彼らの動機は純粋である」と事態を曖昧に処理しようとする中、昭和天皇は前代未聞の激怒を見せます。
昭和天皇が激怒した理由は極めて明快でした。自身が最も深く信頼していた元老・重臣たちを虐殺されたこと、そして何よりも「天皇の軍隊」であるはずの兵士を無断で私兵のように動かし、帝都を武力占拠した統帥権の干犯(軍の指揮系統の破壊)を決して許さなかったからです。天皇は「朕が股肱の老臣を殺害するとは何事か」「陸軍首脳が鎮圧をためらうなら、朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かう」とまで言い放ちました。
2月27日、政府は東京に戒厳令を敷き、反乱軍の包囲網を急速に狭めていきました。このとき青年将校たちが一縷の望みを託していたのが、天皇の弟であり陸軍将校でもあった秩父宮雍仁親王の存在です。秩父宮は青年将校の心情に理解を示す発言をしていたため、将校らは秩父宮が上京して自分たちの味方をしてくれると信じていました。しかし、青森から列車で上京した秩父宮は皇居へ直行し、天皇から直々に釘を刺されたことで、将校たちの淡い期待は完全に打ち砕かれました。
2月29日、投降を促す飛行機からのビラ「今カラデモ遅クナイ」の散布や、「兵ニ告グ」という有名なラジオ放送が流れると、将校に従わされていた一般兵士たちは次々と投降し、クーデターは完全崩壊に至りました。