小倉百人一首の61番に選出されているこの一首は、平安時代中期の歌人・伊勢大輔(いせのたいふ)による作品です。まずは歌の全文と、その正確な現代語訳を確認してみましょう。
【和歌】
いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
(いにしえの ならのみやこの やえざくら きょうここのえに においぬるかな)
【現代語訳】
その昔、奈良の都で咲き誇っていたという美しい八重桜が、時を経て今日、この平安京の宮中(九重の宮殿)で見事に美しく照り映えています。
この歌が平安宮廷の貴族たちを唸らせ、後世の勅撰和歌集(『詞花和歌集』)に採録されるほどの評価を得た理由は、計算し尽くされた言葉の配置と修辞技法にあります。
特に注目すべきは、下の句である「今日九重ににほひぬるかな」に込められた重層的な技巧です。「九重(ここのえ)」は、王城の宮門が九重に重なっている構造から「宮中・皇居」を指す雅語ですが、上の句の「八重(やえ)」に対して数字を一段階引き上げる「八重から九重へ」という数詞の照応を成しています。さらに、「いにしえ(過去・平城京)」と「けふ(現在・平安京)」という時間と空間の対比構造がわずか31文字の中で完璧に成立しているのです。
また、「にほひぬるかな」の「にほふ(匂ふ)」は、現代のような嗅覚的な「香り」ではなく、「視覚的に色鮮やかに照り映える・美しさが満ち溢れる」という古語本来の意味を持ちます。奈良の歴史ある八重桜が、現在の一条天皇と藤原道長の治世を象徴する宮中で、これ以上なく艶やかに咲き誇っている様を寿ぐ、極めて洗練された祝儀歌となっています。